『佐賀県近世史料』の各刊の概要

(平成29年4月27日現在)

佐賀県近世史料 -第1編第1巻-

 本巻に収められた『直茂公譜』『直茂公譜考補』は、日峯さんとして親しまれている佐賀藩藩祖鍋島直茂の生涯を記録したものです。
 戦国時代から江戸初期にかけて佐賀藩がどのように成立していったかが、関係した龍造寺隆信・豊臣秀吉・徳川家康などのさまざまな武将が活動した時代の中に活写されています。直茂の子勝茂が佐賀藩初代藩主となります。 
  鍋島直茂のこと
 鍋島直茂は天文7年(1538)10月28日、鍋島駿河守清房の次男として、肥前国佐賀郡本庄村(現在佐賀市内)に生まれました。(一説に3月13日)。幼名彦法師丸、通称孫四郎、(いみな)は信安・信真・信昌・信生・直茂と称し、受領名には飛騨守・加賀守があります。
 天文10年(1541)西千葉家の養子となりましたが、10年後に佐賀へ戻り竜造寺隆信に従い、九州北部の各地に転戦しながら地位を固めて行きました。
 元亀元年(1570)豊後の大友勢の大軍を、僅2千余騎で撃破した今山(現在佐賀市大和町)の夜襲は有名です。これより先、弘治2年(1556)隆信の母慶闇が直茂の父清房に再嫁したことから、二人は義兄弟となりました。
 天文12年(1584)隆信が島原で敗死した後、直茂は隆信の子政家と竜造寺一門の重臣から領国の治政を委任されました。文禄・慶長の役では、出兵の下命が直茂に下され、竜造寺家臣団は朝鮮陣中彼の指揮下で行動し、主従の関係が強化されました。
 関ケ原一戦、筑後征討など苦渋の後、慶長6年(1601)35万7千余石を相続し、佐賀藩祖となり、元和4年(1618)6月3日死去しましたが、彼は武将として老醜・病醜を嫌い断食して死期を早めたといわれています。
 
 佐賀のあれこれ
 直茂の年譜は戦記物のほか、佐賀の故事を伝えていることも興味深いです。
○一夜川(直茂公譜第5)天正12年8月24日、「筑前国岩谷・宝満の両城主、戸次伯耆入道道雪・高橋主膳入道紹運、豊後の味方に力を合わせんと、一万余騎を引卒し筑後へ赴く、其路次吉岐川嶋越、山鹿・夜須・三原等の敵地を打通り、一夜川を駈渡し」、一夜川の註に「筑後川の本名」とあります。
 筑後川の別名には、御井川・御井大川・千隈川・堺川・御境川などがありますが「一夜川」は見えません。

(かき)(ひさ)染(直茂公譜考補10) 慶長5年の記事
 関ケ原一戦に柳川の立花氏らと西方に付いた佐賀方は、敗北を聞き井伊兵部・本多佐渡守それに円光寺のとりなしで難を逃れ、立花成敗の命を受けました。
「其時内室奥ヨリ蠣久染ノ木綿ヲ持出、具足羽織ニ(いた)(され)ヨトテ一端ツツ手ツカラ引出物アリケリ、此内室ハ直茂公ノ御息女ニテ、高木肥前守女ノ慶圓腹、後ニ天林尼ト申シテ賢女也、蠣久染トハ今ノ赤ネモメンノ事也」
 佐賀の織物には佐賀錦・鍋島緞通など有名ですが、蠣久染はどんな織物だったのでしょうか。

本文頁数:923ページ
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第2巻-

 日本西南地域の雄藩たる佐賀藩の基礎を作った鍋島勝茂の生涯を記した史料を納めています。
 年譜の中から奥女中達の勤め方の一端を紹介します。
 寛永6(1629)年、勝茂の母陽泰院が死去して、そのお付女中達の身のふり方を記した文書から、

○三ノ丸へ罷在(まかりあり)候年寄の女子の内より、一人番かれこれのために、加賀守傍へ召置べき事。

○陽泰院様直に召仕われ候女子、此中辛労仕たる儀候条、縁に付又は奉公に出申すべきと存候者は、其分に勝手次第、(中略)右女共縁にも奉公にも有付かざる内、親子親類これ無き者は此中のごとく、主従の者は其ごとく、一身の者は其ごとく仕付候間、飯米とらすべき事。
 
○おさき、此中別して辛労申儀よく存候条、先様心安く存すべき由申聞かすべ候。

 勝茂は母の仕えた女中達が、路頭に迷うことが無いよう、細やかに鍋島直澄に指示したものです。一方妙精という女性は、直茂といとこの間柄で、かねてから追腹の約束があったとはいいながら、未亡人の死に殉死しましたが、この時は妙精は88才であったそうで、誠に痛ましい限りです。
 また、筑後星野氏の娘三位局は、天正15(1587)年頃、秀吉の島津攻めの時、長虎丸が薩摩に従ったため没落、佐賀へ来て直茂に庇護をうけ、石尾氏に改めて陽泰院に仕えていました。その報恩のためでしょう、三位局も追腹しています。佐賀城内三ノ丸に勤めた女性達の人間模様も、武士の奉公と同じで心うたれる話も多いです。

本文頁数:836ページ
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第3巻-

 寛元事記・光茂公譜考補地取と綱茂公御年譜を記した史料を納めています。その一部を紹介します。

 寛元事記・光茂公譜考補地取
 鍋島光茂は1632年(寛永9)5月23日、江戸屋敷に誕生しました。幼名は翁介。父鍋島忠直、母松平下総守忠明の娘お利です。忠直は早出したので、1657年(明暦3)勝茂が没した後に、忠直の子、勝茂には孫にあたる光茂が家督を相続しました。勝茂には元茂(小城)・直澄(蓮池)・直朝(鹿島)の息子がありましたが、元茂は光茂を立てるべく、画策したとされています。これに加担した女性がいました。光茂は幼年期病弱で、何か始めると一図に(はま)る性癖があったらしく、小倉という養育係の女性が、食事にいたるまで厳しく管理して育てたといわれ、聞書(葉隠)は小倉を賢女と述べています。
 1658年(万治1)光茂は、藩政に当たるに、御代始御書出、長崎御番人へ手頭等を発して決意を表明しました。また、その後幕府に先立って追腹法度・追かけ馬禁止を実施しました。さらに、佐賀本藩と小城・蓮池・鹿島、3支藩の関係を明確に定め、三家格式を発するなど、文治的藩主とされています。
 1692年(元禄5)肥前と筑前の間で、脊振山頂の境界論が起り、双方が幕府に提訴したため、命運をかけた訴訟となりました。結果は肥前の利運で終了しましたが、翌年隠居して綱茂へ家督を渡しました。
 光茂は歌道に貪着(どんちゃく)したところがあり、勝茂から強く意見され、集めた歌集を焼かれました。政道のひまをみて歌学をすることは、亡き勝茂も許してくれるだろうと、再び思い立ち、泰平の世に名を残すには、歌道の他にないと、古今伝授を希求しました。
 末期(まつご)までに西三条の正流を伝授終り、無双の秘書まで渡されました。時に1700年(元禄13)のこととされています。同年5月16日没、享年69才でした。法名 乗輪院殿全機良運大居士。

綱茂公御年譜
 鍋島綱茂は1652年(承応1)5月5日、江戸桜田屋敷に誕生しました。父丹後守光茂、母上杉弾正定勝の娘お虎。幼名彦法師、号に致徳斎・休復・松柏堂・活水・静観堂・適和があります。
 1698年(元禄11)西御屋敷(かん)()(そう)を取立て、その主旨を観頤荘記に記しました。元禄文化は当地佐賀へも波及して来ました。
 施政面では翌年、武雄、多久、諌早、須古を親類同格にしました。
 ところで、綱茂の文化人としての一面を強調するため、随所に詠歌・詩歌・画并讃を引用しているのは、直茂・勝茂・光茂の年譜と著しい相違をあらわしています。

1672(寛文12) 緑樹院追善御詠歌1軸
1673(延宝1)  自性院追善御詠歌
1674(同2)   林大学頭と詩歌唱和
1675(同3)   圓明院追善詩歌
1682(天和2)  蛎久天満宮連歌奉納
1684(貞享1)  鍋島官左衛門宅にて詩作
1686(同3)   諌早豊前宅にて詠歌、鍋島十左衛門宅にて詩歌
1692(元禄5)  原田吉右衛門宅にて詩作
1696(同9)   諌早豊前宅にて詩作
1697(同10)   脊振山弁財天上宮額、鍋島弥平左衛門へ画3幅、鍋島正兵衛宅にて詩作、武帝達磨対面の画
1698(同11)    鍋島正兵衛へ詩文、林大学頭跋文あり
1700(同13)    鳩森社上梁文、乗輪院追善歌并前書
1701(同14)    御筆古歌色紙
1705(宝永2)   御花見詩歌、圓珠寺隠居画像并讃
1706(同3)    乗輪院7回忌50首和歌手鑑。
12月2日死去、享年55才。法名 玄梁院殿卓巌道印大居士という。

 光茂・綱茂の施政について、聞書(葉隠)は、皆御代始めにて何事かなと、新儀(たくら)みの仕そこないにて候。と批評を受ける点も多くありました。

本文頁数:726ページ(他に図版5ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第4巻-

 吉茂公譜、宗茂公御年譜、重茂公御年譜を記した史料を納めています。その一部を紹介します。
 第4巻は江戸藩邸の度重なる類焼、佐賀城の焼失、台風・洪水・干ばつ・害虫による凶作・飢餓等による藩財政や領民生活の困窮化、諌早一揆、銀札の発行、大量の借金など、幕府や全国諸藩と同様に財政と機構制度の手直しに取り組むがなかなか好転せずに苦闘する記事が多くみられます。
 さて各年譜には、将軍家・幕閣・諸大名への進物や藩主一族内での贈答や家臣からの献上物、江戸城における佐賀藩主の席次、佐賀本藩と三支藩の藩主ならびに家臣の格式と席次についてなどの記事が頻繁に見えます。
 当時の人々が藩主はもとより下々まで、対人関係に気配りしながらも、さまざまな集団・組織における相対的な位置関係について強く主張し確認する姿に、今日私たちの日本人の思考方法などの淵源・原形を見る思いがして、苦笑を禁じ得ないものがあります。このように藩主年譜は、いろいろな読み取り方ができる歴史情報にあふれています。

本文頁数:763ページ(他に図版8ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第5巻-

 泰国院様御年譜地取Ⅰ(8代藩主治茂年譜)を記した史料を納めています。その一部を紹介します。
 鍋島治茂は延亨2年(1745)8月4日、第5代佐賀藩主鍋島宗茂の十男として、佐賀城北の丸で生まれました。 母は小代治兵衛重貞の娘ゆきです。幼名は豊松、通称は中務、(いみな)直熈(なおひろ)、後に将軍徳川家治より一字を拝領して治茂といいます。
 宝暦9年(1759)11月に鹿島藩主鍋島備前守直郷の養子となり、同13年4月、和泉守直熈は19才で第5代鹿島藩主となりました。
 佐賀本藩の藩主は宗茂の跡を異母兄の宗教と重茂が相続しましたが、宗教は宝暦10年に43才で隠居し、重茂も治世11年、明和7年(1770)6月に38才にして病没しました。
 26才の直熈は同年7月7日に本藩の家督を継いで、第8代佐賀藩主となりました。さまざまな藩政改革に努めた肥前守治茂の治世は34年に及び、文化2年(1805)正月10日に61才で没しました。法号は泰国院殿教学良化大居士。
 治茂の正室は中院中納言通枝の娘・(まさ)姫で、継室に井伊掃部頭直幸の娘・成姫、継々室に松平能登守乗保の妹・(ひさ)姫がいますが、第9代藩主となった斉直、第7代鹿島藩主となった直彝(なおのり)をはじめ8人の男子と12人の女子のほとんどは側室たちとの間の子であり、ほかに2人を養女として嫁がせています。
 治茂の人柄については、夜更けても袴をぬがないほど厳格であり、一方で家臣が外出して遅くなっても、その言い訳を聞き流して(とが)めない寛容さをもち、また賢明な人物であったといわれています。
 腹違いの兄・重茂も重い痔疾に苦しみながらも「公御平生御行儀正シク在ラセラレ、昼四時ヲリハ袴召サセラレ、八時後ナラデ御脱遊ハサレズ……八時ニ当役(が請役所を)退出ト聞召レ、御袴取ラセラレル……」といい、また社参のおりに乗馬の口を取る馬取が大酒してその酒気がむさ苦しく閉口しましたが、帰城してから御側の者に「以後、馬ニ大酒サセザル様ニ」(重茂公御年譜 付録)といったという人柄に相通ずるものがあります。
 治茂の治世は幕府の政治でいえば田沼時代から寛政の改革の時期に相当し、没後3年目の文化5年には佐賀藩を震撼させたフェートン号事件が発生しています。
 江戸時代後期には全国的に商品・貨幣経済の発展にともない農村内での自給自足的経済の維持が困難となり、農民の段階分化も進んだといわれます。
 加えて佐賀藩では、さきの享保の大飢饉に続き、宝暦・明和・安永・天明年間中に大風雨や洪水といった災害が続発して農村の疲弊と荒廃をもたらし、税収の減少は藩財政の窮乏を深めていきました。
 また安永元年2月末の江戸の行人坂大火で焼失した桜田・溜池両屋敷の再建その他、藩政の改革を不可避とする状況でした。
 明和7年に藩主となった治茂は、肥後藩宝暦の改革に成功した第8代藩主細川重賢(銀臺)の諸施策を手本として佐賀藩の明和~寛政の改革を進めていきました。彼は藩祖を神格化して日峯社を造営(安永元年)し、人材養成のため藩校弘道館を設置(天明元年)しました。
 また藩政の基本法「鳥子帳」の検討や行政整理と経費の節減を図るとともに(こめ)(はず)(藩礼)を発行し、六府方を設けて新田開発と殖産興業政策を推進しました。領民の追放刑を改めて懲役刑とする徒罪(すざい)制の採用も主要施策の一つです。(この文は佐賀県史中巻を参考としました)

本文頁数:580ページ(他に図版8ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第6巻-

 泰国院様御年譜地取Ⅱ(8代藩主治茂年譜)を記した史料を納めています。その一部を紹介します。
 鍋島(はる)(しげ)(1745~1805)は第5代藩主鍋島宗茂の十男で、異母兄の宗教・重茂の跡を継いで明和7年(1770)に第8代佐賀藩主となり34年、この間藩政改革に努めました。彼の治世は将軍徳川家治・家斉の時代です。
 さて、「地取Ⅱ」は治茂30才(安永3年、1774)から7年間の出来事を収録しています。
 明和9年(安永元年)に日峯社を造営し、いわゆる「明和の御改正」で藩政改革に着手した治茂でしたが、成果はすぐには現れず、財政悪化に関連する記事と、より実情に即した行政組織の手直しや新たな仕組みのことが多くみられます。
 不足する経営的な費用に加えて、焼失した江戸の両屋敷の再建費用の調整など臨時費が重なります。連年の大雨洪水被害、疲弊する郷村、風俗悪しくなる社会情勢のなかで、借用金は増大し「言語道断、極々の御差支」連続です。これに対し、藩では公私にわたる倹約・省略はもとより、家臣の給料の分割払い、御馳走米(献米)の強制、人別銀や俵銭の課税、米筈(藩礼)の発行、各地の借銀の借換えや分割払い繰延べなどの対策を行います。
 苦労腐心する財政担当の役人たちになお一層の尽力を求める藩主、役方引取りを願い出る役人。返済ができずに長崎の領主から「殿様お越しの節、御駕籠にすがり御願申上候段」と伝え聞いて返済策に追われ、また大坂では公訴される始末で、安永年間を通じて年1万貫台の借銀高で大変な財政状況にありました。
 財政難は支藩も同様で、安永3年、有栖川宮江戸参向の御馳走役に命じられた小城藩の家老野口文次郎は公儀に7千両の拝領を願い出て、本藩から切腹を仰付けられました。痛ましい出来事です。
 しかし、安永年間は藩借銀の整理と財政改善のため、長尾矢治馬の大規模干拓の献策を採用し、用水堤・堀の整備を進め、国産品の奨励などで郷村の零落を止めて振興を図るなど、抜本的な対策を進めた時期だったといえます。

本文頁数:639ページ(他に図版11ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第7巻-

 泰国院様御年譜地取Ⅲ(8代藩主治茂年譜)を記した史料を納めています。その一部を紹介します。
 泰国院(佐賀藩主鍋島治茂)は窮乏の佐賀藩を継承して、この12年程の間に、2万5千貫を越えた借銀を5千数百貫、約5分の1に整理することに成功しました。この間の藩政の進め方は、年譜の時どきに記される「御相続方」の案文で察せられます。
 佐賀県史その他で取り上げられる泰国院の重要な施政はこの時期でした。
御有(おんあり)米御遣合(まいおつかいあわせ)(収入に見合う支出)の原則
2江戸・上方・長崎方面の借銀の強制的整理
3千人講・俵銭などで増産をはかる
4新(からみ)築立(干拓事業)で増産をはかる
5藩役人として人材育成のため弘道館を設置する
 以上5項目にまとめられます。

本文頁数:687ページ(他に図版7ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第8巻-

 第8巻は、第8代藩主・鍋島治茂(泰国院)の全39巻(本文7000ページ)にも及ぶ膨大な年譜地取の内、天明7年(1787)43歳から寛政6年(1794)50歳までの事跡を解読・収録し、『泰国院様御年譜地取Ⅳ』として刊行したものです。
 治茂は文化2年(1805)に61歳で没するまで、藩の行財政の改革・改善に積極的に取り組みました。本巻には治茂の改革がおおむね軌道にのった時期の佐賀藩政の経営が豊富な史料で記録されています。

本文頁数:711ページ(他に解題34ページ、カラー図版5ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第9巻-

 第9巻は、第8代藩主・鍋島治茂(泰国院)の全39巻(本文7000ページ)にも及ぶ膨大な年譜地取の内、寛政7年(1795)51歳から享和3年(1803)59歳までの事跡を解読・収録し、『泰国院様御年譜地取Ⅴ』として刊行したものです。
 治茂は文化2年(1805)に61歳で没するまで、藩の行財政の改革・改善に積極的に取り組みました。
 本巻には治茂の晩年の政治の様子が豊富な史料で記録されています。

本文頁数:717ページ(他に解題20ページ、カラー図版4ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第10巻-

 第10巻には鍋島治茂の文化元年(60歳)から没年の同2年までの20年間の『泰国院様御年譜地取Ⅵ』と、その付録的性格を持つ「孝行寄特成者行状書」「科一通」「仰出御書附其外」の3冊、治茂の嫡子斉直(のちの9代藩主)の誕生から襲封までの公譜「斉直公譜地一~四」4冊、「御代々様略譜」のなかから、藩主として治世年譜が作成されなかった6代藩主宗教と9代藩主斉直の年譜を翻刻いたしました。

本文頁数:686ページ(他に解題18ページ、カラー図版5ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第1編第11巻-

 本巻に収められた『直正公譜』『贈正二位公御年譜地取(直正公御年譜地取)』は、苦境の財政逼迫を佐賀城二の丸焼失を契機に、改革の断行につなげ、列強東漸の危機の時代の中に、大きく藩政の舵をきりながら、先優後楽の気概のもと、先進的改革を一歩一歩着実に成し遂げてゆく第十代藩主直正の姿が克明に書き下ろされた記録となっています。
 幕末・維新期の基本的史料で、今回はじめて活字化されました。

本文頁数:1,038ページ(他に解題30ページ、カラー図版5ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第2編第1巻-

 本巻には、『元茂公御年譜』『直能公御年譜』および元茂に関わる『月堂様年中行司』『茶屋物語』を収録しました。 
 これらは佐賀藩の三支藩の一藩である小城藩の初代藩主鍋島元茂・二代藩主鍋島直能の生涯を記した記録です。第2編は佐賀藩の支藩編であり、第1編の佐賀本藩編に続くものです。
 佐賀藩の支藩は本藩初代藩主鍋島勝茂(1580~1657)の息子たちから分岐し、元茂(1602~1654)が小城藩、直澄(1615~1669)が蓮池藩、直朝(1622~1709)が鹿島藩を創業経営します。ただし、鹿島は、さらに遡り、勝茂の弟忠茂(1584~1624)からはじまる歴史があります。

本文頁数:926ページ(他に解題24ページ、カラー図版6ページ)
頒価  :9,000円
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佐賀県近世史料 -第2編第2巻-

 今回翻刻した資料のうち、『元武公御年譜』には、元武(1662~1713)が徳川光圀と親しかったことや、江戸城の奥詰(将軍の側近くに仕えたごく少数の大名)に命じられていたこと、犬公方と呼ばれた五代将軍徳川綱吉が大のキツネ嫌いであり、江戸城中に現れたキツネを捕えたこと、黄檗宗(おうばくしゅう)に帰依(きえ)したことなどが記されています。
 また『元延公御年譜』は、在位が1年余りと短いため、元延(1695~1714)本人の治績を表す記事は殆どみられませんが、小城藩の法令や幕府の法令などが収録されているため、小城藩の藩政を研究するのに役立つものとなっています。

本文頁数:716ページ(他に解題20ページ、カラー図版4ページ)
頒価  :9,000円
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佐賀県近世史料 -第5編第1巻-

 第5編は対外交渉編であり、その内容は朝鮮出兵・朱印船・渡来異国船・朝鮮貿易・漂流船・長崎出島・長崎貿易・長崎警備・フェートン号事件関係などから構成されるものです。第1巻は『幕末伊東次兵衛出張日記(全23冊)』(通巻16冊目)を刊行しました。
 伊東次兵衛(1806~1890)は幕末の長崎警備・対外通商などの佐賀藩の当局者の代表的立場にあった人物で、その日記23冊(『幕末伊東次兵衛出張日記』)は、ペリー来航の2年前の嘉永3年(1850)から、戊辰戦争に軍監として出征する慶応4年(1868)までの、主に出張時に記録されたものです。
  次兵衛は鍋島直正(閑叟)直属の最高決定機関である仕組所の構成メンバーであり、長崎や京都・大坂に往来して、佐賀藩の実地の交渉ごとの最前線に立った人物です。
 日記にはプチャーチン、グラバー、クルチウス、フルベッキ、ボードインなど長崎で活動する外国人や藩内外の幕末の要職にある人物が登場します。
 アームストロング砲をグラバーに注文する記載や、佐賀藩がオランダ人の指導のもとに長崎で造船した晨風丸の進水式の様子など興味ある記事も見えます。
 慶応年間の日記には大隈八太郎(重信)や副島二郎(種臣)の名前も出てきています。佐賀藩幕末の歴史の上で、活動の実際が記録された貴重な史料の一つと言えます。
 原題『官私點心録』の表記にも現れたように、これらの日記は公的記録とともに、宗徧流の茶人としての次兵衛の活動など、私的な記録も書かれており、幕末のせわしい動静の中にあっても、江戸期の文化人として、閑暇を楽しむどこか悠々とした姿も感ぜられます。

本文頁数:1,069ページ(他に解題23ページ)
頒価  :9,000円
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佐賀県近世史料 -第5編第2巻-  New

 第2巻では、佐賀藩の長崎警備に関わる記録である「白帆注進外国船出入注進」、および「幕末伊東次兵衛出張日記(第1巻未掲載分)」を掲載しました。
 「白帆注進外国船出入注進」は、天保十五年(1844)から慶応四年(1868)の間、長崎港に出入りした外国船の様子、また、その外国船に対する日本側の対応を記録した資料です。 天保十五年七月二日、オランダの軍艦パレンバンが国王の親書を携えて長崎に入港しました。佐賀から急遽駆け付けた軍勢の数は数千人。前線基地となる切込小屋を臨時に建て、石火矢を数多く設置しました。陣幕は白地に紺紋の幕数百張りをめぐらし、数多くの旗印・提灯を立てました。警備の船には御紋付きの幕を張り、三百目及び新製五百目の大砲を載せました。戸町・西泊の両御番所には紺地に白の御紋幕を数十張、幟・鳥毛鑓数十本、御台場は白地に紺、また紺地に白の御紋幕数十張が張られました。夜に入るとさらに高張提灯も掲げられました。御番所・御台場には松明も掲げられ、「紙筆ニ而難尽申候」とその警備の様子を伝えています。 幕末の激動期、長崎港の警備の様子を記録したこの「白帆注進外国船出入注進」は、日本の幕末史にとっても、非常に貴重な資料であるといえます。 また、その詳細な記録とともに色彩豊かに描かれた国内外の帆船・蒸気船は、この史料集を手に取って見る人の目を釘付けにすることでしょう。

本文頁数:本文頁数 870頁(カラー図版146頁、他に口絵6頁、解題40頁、索引11頁を含む)
頒価  :10,000円
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佐賀県近世史料 -第8編第1巻-

 本巻に収められた『葉隠聞書校補』は幕末に編さんされ、(明治15年以降に補訂)、『葉隠』研究の根幹的基礎資料といわれながら、現在まで活字化されることのなかった資料で、明治維新に活動した江藤新平・大木喬任・大隈重信などの師であり、副島種臣には実兄、島義勇には従兄弟にあたる弘道館教諭枝吉神陽が中心となり編さんしたものです。
 内容は葉隠登場人物名の詳細な註を中心に、社寺、事項の解説、諸文書、関係系図の所収など葉隠研究に多大な便宜を提供する史料です。
 当巻にはこのほかに、山本常朝自筆本を底本にした中野三代集と呼ばれる『中野神右衛門清明年譜』『山本神右衛門重澄年譜』『山本神右衛門常朝年譜』及び『愚見集(奉公根本)』『餞別』『乍恐書置之覚(常朝書置)』を翻刻。
 また、写本により葉隠関連史料である『草庵雑談覚書』『老士物語之ケ条覚書』『山本常朝和哥并日記(元禄十三辰歳遁世以来愚詠・寿量庵中坐の日記)』『打とけ咄の手覚』『御代々御咄聞書』『田代家三男系図(田代陣基家系図)』を活字化しました。

本文頁数:1,008頁。(他に解題29頁、カラー図版10頁)  
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第8編第2巻-

 本巻は佐賀藩士が書き残した『葉隠(葉隠聞書)』に先立つおもな聞書類を中心に編さんしたものです。
 これは、『日峯様御咄之書(茂宅聞書)』『御當家聞書(草野太郎兵衛永元聞書)』『透運筆語抜書』や常朝自身による『常朝聞書』、常朝の父重澄の『山本神右衛門覺書』など葉隠編さんに影響を及ぼし、また関連を持つと思われる一群の聞書類です。
 また『葉隠』成立後の記録ですが、中嶋喬連の『御年寄手扣』や『山本傳左衛門常亮所蔵御書物其外書附類』などは今後の葉隠研究に深みと広さを提供するものです。
 さらに、常朝の親類である中野就明の著した『タイ捨流解紐』は、常朝が学んだとされるタイ捨流の武道書で、常朝がいかなる剣術を修行していたかを窺うことができる数少ない書物です。
 また、明治期以後の成立になりますが、『葉隠巻首評註』は幕末、佐賀藩第10代藩主鍋島直正の近侍をつとめ、明治期は東京帝国大学の教授でもあった久米邦武(1839~1931)の著作で、佐賀藩士ならではの『葉隠』の理解が示されています。

本文頁数:844頁。(他に解題18頁、カラー図版8頁)  
頒価  :9,000円
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佐賀県近世史料 -第8編第3巻-

 本書は『葉隠』を口述した山本常朝(1659~1719)が教えを受けた石田一鼎(1629~1693)の関係資料と、同じく常朝と交友があった小川俊方(1646~1726)の著作を中心に収載しました。
 この3人は期間の長短はあれ、いずれも第二代藩主鍋島光茂(1632~1700)の近くに仕えた人物で、光茂を中心とする一七世紀後半の佐賀藩文化(思想・学問)の状況をかい間見ることができます。
 ことに今回は石田一鼎の代表的な著作とその家に関わる資料を網羅しました。なかでも『石田私史』は『葉隠』研究の一資料というだけではなく、この時期に欠落する藩政期の基礎資料としても、十分に活用できるもので、大名間交際や民政・各種の情報などに関わる事項も見られます。
 また、『憲法本紀』『潮音和尚咄』は小城市出身の黄檗宗の僧潮音が、この時期の佐賀藩に深く影響を及ぼしていた事実を知ることができる資料です。
 さらに待望久しく今回はじめて活字化された小川俊方の『焼残反故』は、享保9年(1724)の成立で、享保元年成立の『葉隠』とあい前後し、以後は藩主年譜の編さんにも利用される重要な書物となったものです。

本文頁数:834ページ(他に解題60ページ、カラー図版7ページ)
頒価  :9,000円
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佐賀県近世史料 -第8編第4巻

 古賀穀堂は、佐賀藩十代藩主鍋島直正の幼少期に、直正の学問の師として仕え、さらに藩校弘道館の教授となりました。藩政においては、御側役のトップである御年寄に任ぜられ、鍋島直正の信任厚かった人物です。
 今回翻刻(ほんこく)した「著作」からは、穀堂の思想、日々の暮らしや旅の様子が手に取るようにわかります。 また、「書簡」からは、穀堂の佐賀藩政に対する憤懣(ふんまん)と鍋島直正に対する期待。家族のことでは、娘に対する愛情と悲しみが伝わってきて、穀堂の人柄が生き生きと見えてくるようです。

本文頁数:1,182ページ(他に口絵8ページ、解題33ページ)
頒価  :9,000円
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佐賀県近世史料 -第9編第1巻-

 佐賀県の近世文学の俗文学の主要作品を収めました。
 俳諧については、女性が編んだ最初の俳書といわれる『菊の道』(元禄13年刊)を始め、新出の宗因・如自両吟の「ひと時雨百韻」など、全35点を収めました。
 草子・実録物は、地方には珍しい仮名草子の『竹の林の落葉左衛門』、佐賀猫化け騒動の原典的作品を含む力作『肥前佐賀二尾実記』、佐賀の代表的仇討ち話『目達原敵討』など7作品です。
 一編舎十九集は、地方の滑稽本作者として知られる蒲原大蔵の著作のほぼ全作品を収め、頭註をつけました。

本文頁数:1,000ページ(他に解題52ページ、カラー図版8ページ)
頒価  :11,000円
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佐賀県近世史料 -第10編第1巻-

 各宗派から佐賀藩に差し出された『寺社差出』(鍋島家文庫)の中から、天台宗・真言宗・当山派山伏関係の記録と本山派山伏の法頭職を務めた西持院(佐賀市久保田町)所蔵の『諸記録』『隆山記録』を収録しました。
 翻刻した資料からは寺院の由緒や経営の基盤となる寺領をはじめ、支配管理した小祠小社末寺や歴史の彼方に消えていった廃寺など、これまで刊行の記録にあまり見られない記載を見ることができます。
 そのほか、武雄の安龍院の息子信行が中国に渡り所々を遊歴し、虎と戦い、帰国し、その傷を郷里塚崎温泉で癒す冒険に類する話や山崩れで寺院が押し流された言い伝えなど、災害や大風の記載もあり、寺院の記録としてのみならず藩政史にも役立つ記事も見ることができます。

本文頁数:569ページ(他に解題40ページ、図版12ページ、索引27ページ)
頒価  :8,000円
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佐賀県近世史料 -第10編第2巻-

 今回翻刻(ほんこく)した『曹洞宗由緒(そうとうしゅうゆいしょ)』、『済家宗由緒(さいけしゅうゆいしょ)』には、佐賀藩の禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)寺院の由緒や歴史、経営の基盤である寺領をはじめ、大きな寺院のもとで管理されていた小さな末寺や、歴史の彼方に消えた知られざる廃寺のことなど、これまで一般の方にあまり知られていなかったことが数多く記載されています。
 また、『大施餓鬼ニ付諸記録(おおせがきにつきしょきろく)』には、享保17(1732)年の大飢饉の際に佐賀藩で数万人が亡くなり、佐賀市の仏心寺(ぶっしんじ)(黄檗宗)で死者を供養する「施餓鬼(せがき)」が54年間行われたことが記されています。

本文頁数  755頁(他に解題82頁、図版42頁)

価 格   9,000円
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佐賀県近世史料 -第10編第3巻-

 浄土宗・浄土真宗・日蓮宗の各寺院の由緒や歴史、経営の基盤となる寺領をはじめ、支配管理した末寺・末庵等、また寺院で行われた年中行事の記録など、これまであまり紹介されることのなかった記載も数多く見ることができます。たとえば、徳川将軍家の菩提を弔い、藩から仏具料を渡されていた正定寺のこと。関ヶ原の戦いで敗れた佐賀藩を救った本願寺の准如(じゅんにょ)上人(しょうにん)の話や、その恩義に報いるために建てられた願正寺のこと。下総国から下向してきた千葉胤(たね)貞(さだ)によって、文保年間に創建された光勝寺のこと。これらの資料は単に寺院の来歴に留まることなく、佐賀の歴史を雄弁に語ってくれています。

本文頁数  702頁(他に口絵8頁、解題33頁、索引37頁)

価 格   7,000円
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佐賀県近世史料 -第10編第4巻-

 神社の由緒や鍋島氏に関係する記録を佐賀藩役所がまとめた『社家(しゃけ)』や『御社参之一通(ごしゃさんの)ひととおり)』、その他古くからある神社に関係する崩し字などで書かれた当時の記録を活字化し、刊行しました。


本文頁数  919頁(他に口絵40頁、解題46頁、索引18頁)

価 格   10,000円
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佐賀県近世史料 -第10編第5巻-

 平成25年(2013)は伊勢神宮の式年遷宮の年で、全国各地から多くの参拝者が伊勢神宮を訪れたことは記憶に新しいところです。
 本史料集に掲載した資料群は、戦国時代から江戸時代初頭、伊勢神宮を目指した肥前あるいはその周辺地域の人々が、伊勢御師の橋村肥前大夫の屋敷に宿泊した時の記録「御参宮人帳(ごさんぐうにんちょう)」と、逆に橋村肥前大夫がこれらの地域を回り、御祓大麻や伊勢のお土産を持参して、参詣を促した活動の記録「御祓賦帳(おはらいくばりちょう)」からなります。これらには伊勢参宮を行った肥前およびその周辺地域の村落やそこに居住する人々の豊かな情報が含まれています。当時の人々の名前が住んでいた村名・年代とともに多数記された情報は、残存資料が限られるこの時期のものとして大変貴重なものといえましょう。


本文頁数  873頁(他に口絵8頁、解題33頁)

価 格   10,000円
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購入方法

 申込書に必要事項をご記入のうえ、郵送またはファックスにてお送りください。
 申込書はこちら(116KB;PDFファイル)/WORD版(249KB;WORDファイル)

申込及び問い合わせ先
佐賀県立図書館 近世資料編さん室(〒840-0041 佐賀市城内2-1-41)
電話: 0952-24-2900   FAX: 0952-25-7049

お支払い方法
※次のいずれかの方法でお願いします。
 (1)県立図書館での現金払い
 (2)現金書留
 (3)佐賀県の納入通知書による支払い
  ※いずれも現金受領後〔(3)は入金確認後〕本をお渡しします。
  ※公的機関で支払方法の検討が必要な場合は別途御相談ください。

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